滋賀県隊友会

TAIYU SHIGA

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OB会雑感

2月27日(土)、会員の多くが隊友会員でもある旧第3対戦車隊の第35回OB会が開催されました。この部隊は昭和37年の第1次師団改編で対戦車戦闘専任部隊として創隊され、平成5年度末の師団改編で廃止となりました。私は創隊5年目の昭和42年に新隊員教育終了後2等陸士で配属されてから幹部自衛官に任官するまでの9年半と昭和60年から62年にかけての運用訓練幹部としての1年半勤務し、36年余で8つの部隊に勤務した自衛隊生活の三分の一弱となる通算11年間お世話になったまさに原隊そのものです。配属された時の主要装備は106mm無反動砲、その後64式ATM、最後は79式HATMと時代の変遷とともに装備が更新されましたが、特に昭和40年代半ばまではどこの部隊も旧軍出身の幹部や上級陸曹が現役であって訓練内務は厳しかったけれども隊長以下百数十名という師団直轄のこじんまりした部隊で極めて家族的な仲間意識の強い部隊でした。職種は一応は「普通科」ではありましたが普通科連隊とは全く趣きを異にする完全車両化部隊で独立戦闘能力は無く普通科連隊や戦車部隊と協同又は配属されて対戦車戦闘のみを担任する部隊のため普通科職種としての意識に元々乏しく、幹部候補生の学科試験受験にあたり、職種の問題では私達にだけ必要で有った「対戦車隊」という薄っぺらい教範に留まらず、見たことも読んだこともまして経験したこともない「普通科連隊(群)、普通科中隊、本部管理中隊、重迫撃砲中隊、その他機関銃や迫撃砲などの火器教範等」の多くの教範やその内容が出題範囲となるため面喰いかつ意気消沈し勉強する気も受験意欲もわかなかった思い出があります。

さて、本題のOB会についてですが、本来OB会はOB同士の旧交を温める目的はもちろんのこと母隊との連携・交流による相乗効果があります。自衛官に転属はつきものなので本来なら勤務した全部隊のOB会に属してもおかしくは無いのですがOBの大部分はその部隊に長く勤務した方が主力でもあることから逆に指揮官や幕僚はしょっちゅう入れ替わっていることも有り幹部自衛官は一般的に馴染みも薄く、何か特別の因縁でもない限り話題も限定されかつ本人が思う程に歓迎もされない??ので自然に縁遠くなるのが一般的かと思います。中には非歓迎ムード一杯の中、「俺が◯◯(役職名)の頃はこうした・・・ああした・・」等と自慢話、手柄話でそっくり返りブーイングの嵐を受けた人、さらにはそれにもめげずOB会に何度も参加し宴席で挨拶に来ない旧部下に小言を言う猛者?旧指揮官もあったりしますがやめれば只の人、同格ですからねー。私の場合は新隊員から在籍し原隊である第3対戦車隊及び、中隊長に上番し苦楽を共にした隊員の多くと今に置け交流のある秋田第21普通科連隊第2中隊(奇しくも私が中隊長に上番した第2中隊の初代中隊長は元第4代第3対戦車隊長でしかも私が陸士長当時隊長付操縦手でした。そして第3代中隊長は元第5代第3対戦車隊長、加えて初代第3対戦車隊長のご子息が運用訓練幹部として勤務の奇跡的縁もあります。)そして2等陸士として自衛隊入隊、大隊長を最後の職とした地元部隊第109教育大隊の3個部隊だけがOB会員としての繋がりとなっています。国の防衛施策の変遷に伴う幾多の改編により母部隊が無くなると母隊との連携・交流はもちろん、OB会に対する所要の支援・協力も受けられなくなりOB会の存続にも多大の影響があります。平成5年度末の師団改編では第3師団の場合、第45普通科連隊が廃止となり昭和45年以前の乙師団3個普通科連隊体制に戻り、併せてわが第3対戦車隊はじめ、特科、戦車、施設部隊も戦闘団編組の関係上第4大(中)隊が廃止となりました。幸いにもわが第3対戦車隊は廃止になった代わりに3個普通科連隊に「対戦車中隊」が新たに編成されたため対戦車隊員の多くはこの要員として79式HATMとともに各普通科連隊に転属し対戦車隊の血脈はかろうじて生き残り、私自身、第36普通科連隊の第3科長勤務でしたので旧友を迎え入れる立場になり感激したものです。然しながらこれも長くは続かず最終的に対戦車中隊も廃止の憂き目にあい旧第3対戦車隊の血脈はついに途絶えることとなりました。このような浮き沈みの中で、わが第3対戦車隊OB会は、会友紙を発行したり普段の交流イベントを企画したりと役員の皆さんの頑張りと会員の熱意で1年も欠かすことなく毎年例会が実施され今年で35回になりました。間隔をあけることなく毎年開催することで会の維持が出来ているという側面効果もあり、加えてそのために毎年参加メンバーが入れ替わり立ち代わりもあって懐かしい旧同僚達と長い年月の末に再会することも多く有り意義深いものです。私も今回は陸曹の同期生(38期)で一緒に第3陸曹教育隊に入校し41年前にお互いの転属で離ればなれになった山口県在住の入隊2年先輩と再会を果たすことが出来大感激の1日でした。わが母隊に限らずこの種OB会の運営も年々厳しくなる中で今一歩目的を見つめ直し時代に適合するように運営の柔軟性や斬新性をも加味していくことが求められていくような気がします。

会長 奥村記

初代主要装備の106mm無反動砲

初代主要装備の106mm無反動砲

第2代主要装備64式対戦車誘導弾(64ATM通称マット)

第2代主要装備64式対戦車誘導弾(64ATM通称マット)

 

 

3代目主要装備79式対舟艇対戦車誘導弾(79HATM通称重マット)

3代目主要装備79式対舟艇対戦車誘導弾(79HATM通称重マット)

OB会総会

OB会総会

記念碑(部隊廃止時大津駐屯地に建立)

記念碑(部隊廃止時大津駐屯地に建立)

記念碑の前で第3対戦車隊歌の隊歌演習

記念碑の前で第3対戦車隊歌の隊歌演習

懇親会

懇親会

41年振りに陸教(38期3曹教)同期との再会

41年振りに陸教(38期3曹教)同期との再会

上から目線って??

会友の皆さん!隊友会、OB会等々自衛隊とのつながりやしがらみはあるものの、日々の生活環境や職場環境が180度変わって自衛隊を退役して10年以上もたつと「もはや自衛官ではない。」という心境になりませんか?でもこれは当然のことで自衛隊在籍時の表現は適当ではないかもしれませんが縦割りかつ閉鎖的環境組織から一般社会の荒波に投げ出された後は、いつまでも自衛隊時代の階級や考え方が通用するはずも無く職場によっては自分の子供のような上司に仕え、極悪クレーマーを相手にひたすら頭を下げる毎日の中でやがて本来の社会人として生きていけるようになるんでしょうね。

そこで、よく「上から目線」と言う言葉を耳にしますが、「上から目線」と相手方に思われる人・組織は案外自分自身ではそんなつもりは無いにも関わらず、受けた人にとっては全く組織外や違う社会的立場の人であった場合は物凄く違和感や抵抗感を持つ場合が多いと思います。私は定年直後から自治会長や氏子総代等いくつかの地域役員を務めましたが、私自身意識して特に丁寧な言葉や対応に心がけたつもりでも「奥村さんは元自衛官だから偉そうにしている。上から目線だ。」などとしょっちゅう非難されたものです。高齢者になりすっかり一般社会人化した最近になってお役所や自衛隊等とのやり取りの中でようやく「上から目線」ってこう言うことだったのかとおぼろげ乍ら私なりの解釈をするとともに自分の自衛隊勤務時代を思い起こして反省しきりであります。

退官して再就職するにあたり「もはや自衛官では無いんだ。民間社会に溶け込もう。」と言う決意とともに「自衛官として培われた心技体。順法精神を期待されている。」と言う自負心が混ざり合った状態でスタートしたものの、どちらかに少しでも偏った途端に挫折を味わうケースは良くあります。私の場合、損害保険会社に再就職し退官の翌日から見知らぬ初対面の事故被害者に面談しこれ以上の屈辱は無いと感ずるほどの罵声を浴びたのが民間人としての第一歩でした。依来8年数か月、1千数百件の事故処理にあたり何とか第2の定年63歳まで過ごせたことで少しは人間修養させていただけましたが損保では自衛官出身者の定着率は両極端で早い人はいきなり私のような洗礼を受けると1週間と持ちません。1年以内で退職する人の殆どが自衛官時代は自他ともに認めるそこそこの地位・階級にあった人でした。その時分に元自の会社後輩によく相談を受けましたがそのほとんどが「こちらはまともなことを言っているのに理解しようともしない。筋の通らない話をする。」等々の内容でしたが、要はプライドが許さないのと自分の考えや行動に相手が従わない?ことに対するショックです。自衛隊は階級制を持って上下関係を律する精強な組織であることが存立要件であるのは当然で有ります。よって各種事業や行動等は指揮官の指針に基づく幕僚作業によって計画・命令等化され実行に移されます。時にトップダウンを旨とする積極的な指揮官もありますがいずれにしても組織内での疎通はできているため最終的には「問答無用」が当然なのです。

然しながら、相手が民間であった場合はどうでしょうか?民間人や民間の組織を巻き込む事業等について自衛隊内では完璧に計画準備がなされていたとしても、事前に相手には知らされず出来上がった計画を開示された相手が疑問や意見を述べた場合「既にトップの指導受け済・決済済です。そのことに対する理由はこうです。」等々と理路整然??のつもりで言いきってしまう。これを受けた相手は納得する場合もあれば民間人としての立場や考え方に照らして「上から目線だ。」と感じるかのいずれかでしょう。ローカル駐屯地の第1科長や副連隊長あるいは師団司令部1部総括班長等部外協力団体の皆さんと接する機会があった時代、思い起こせばいろんなトラブルを経験しました。一例のご紹介です。現在でも自衛隊記念日行事の記念会食は部外協力団体主催の形態のところが多いかと思います。某駐屯地勤務時代のことです。その駐屯地は地域の自衛隊感情がすこぶる宜しく逆に言うと密着しすぎて半ば馴れ合い的になっていたきらいがあるぐらいでした。その県には私の所属する普通科連隊基幹の駐屯地、他幕の基地及び地方連絡部が所在し、防衛協会、父兄会、隊友会、防衛協力会等の共通協力団体とそれぞれの駐屯地、基地の協力会始め多くの部外協力団体があり、駐屯地記念日行事の記念会食は例年駐屯地協力会が主催で実施されていました。ある年のこと、協力会長がトップを務める某企業の総務部長から「今年の記念会食について計画を頂いたので会長に報告したところ会長から「会食の配席でメインテーブルに配席されている某氏は近年急激に業績を伸ばされている企業主ではあるが協力会には最近入会されたばかりで役職も無いのでメインには値しないのではとの意見があったので司令職務室長にお伺いしたら、「計画は実行委員会で審議し駐屯地司令の決済を既に受けたものです。某氏(会社経営者)は隊員や家族の冠婚葬祭などで便宜を図っていただいたり、駐屯地に個別にいろんな意味で(意味深長)協力頂いていて駐屯地として外せない・・」との回答でしたのでこの旨会長に報告したところ会長から「地域の経済界・政界の主だった方がこぞって会員になって頂いている協力会としてはバランス上からもいささか疑念が生ずる可能性がある。」とのことでした。」との電話を頂き、詳細ないきさつを司令職務室等に確認し、計画段階であって配席は当日でないと本人にはわからないこともあるので2番目ランクテーブルに変更する処置を司令に了解を取り、処置の説明を兼ねて協力会長にお詫びにお伺いしました。その時の協力会長のお言葉は今も良く覚えております。要旨は「協力団体はこの県内でも沢山ありますし会員も数個の団体を重複している人もいます。また、入会の目的も基本は「日本の防衛、ひいては自衛隊の皆さんの後ろ盾になりたい。」方が殆どですが中には自己のステータス向上や商売目的の方も無いわけではありません。又、「金は出すけれども口は出さない。」方が自衛隊にとっては都合がいいでしょうが、これが全てでは無く、真に自衛隊のことを思い提言や意見を申したい、いやそれが協力だと思う人も当然あります。今回の事例で言えば{主催団体の名義貸しで経費は持ちますから自衛隊さんご勝手にどうぞ}でも宜しいですが部外者も多数参加する会食ですから社会通念上、あるいは地元経済界、政界の事情から配慮すべき点も無きにしもあらずで、このことは我々民間人しかわからないことであり、自衛隊さんに恥をかかさないためにも計画に対する疑問点を申しあげるのは憎まれ役になるけれども主催団体長の務めと思って敢えて申し上げさせていただきました。」とのことで只々自衛隊の世間狭さを恥じ入るばかりでした。要は「上から目線」とは直接のあからさまな言動ばかりでなく、このような「わが組織で計画したことが絶対で聞く耳持たぬ。」あるいは「わが組織内での理屈や理由付けは万民共通で誰でも理解可能である。」との勝手な思い込みが相手に読み取られた時点で相手は「上から目線」と感じるということです。役所に何かの届や質問をしても、決まって「条例の〇号〇項で決まっています。」「そういう例はありません。」「これまで何も要望が無かったですから・・」などと役人の立場からは至極当然と思う回答が来るわけですが市民にとっては全く回答になっておらず明らかに「お役人の上から目線回答」と感ずることでしょう。結果は当初から明白であっても「その件は規則上こうなっておりますが念のためお調べさせて頂いて(検討させて頂いて)お返事させて頂きたいと思いますのでしばらくお時間頂けますでしょうか?」という民間企業の常識である市民目線の前向きな回答が返ってくることは極めて少ないのが現状です。

少なくとも自分たちの計画の正当性を確信し主張する場合であっても即座に反論するのでは無く「お申し越しの件は賜りましたので関係部署、上司等と協議検討の上後刻お返事させて頂きますのでしばらくお時間頂けますか?」と回答し最終的に修正の余地が無ければ相手に具体的理由を丁寧に説明し理解を得るという手順があれば「お役所(自衛隊も含む)は上から目線だとは思われにくいはずです。損害保険会社のように対人関係を重視する業界では「最初から結論ありき」の事柄でもいったんは間合いをおいてから丁寧に説明し理解を得ることが仕事の出来る要素でありました。仮に民間企業の世界であっても同業同士では常識で問題のないことも、相手が異業種や素人の方の場合はそうはいきません。民間企業とお役人の世界では組織の目的や価値観が異なるのは当然ですがいずれにしても「接点」を模索し対応を考えて接することが肝要でかつ常識かと思います。要は自己中が「上から目線」の始まりだということに相手の立場になって今更ながら気付きました。

 

会長 記

 

 

ごこくさん清掃奉仕活動の紹介

滋賀県護国神社がどこにあるかご承知でない会友もおられるかもしれませんが、滋賀県護国神社は県庁所在地の大津市では無く彦根市に所在します。言うまでもなく護国神社は戦没者の御霊をおまつりする神社で、概ね各府県に1社存在しています。滋賀県隊友会も、公益事業活動の一環として郷友連盟等とも連携し、高島支部を中心に従来から例大祭前の清掃奉仕活動を続けておりますが、来年度からは支部活動から県隊友会事業として取り上げたいと思っております。そんな中で、甲賀・湖南支部所属で、技能予備自衛官補から予備自衛官として勤務されるとともに、安全保障、防衛問題等に深い関心と造詣の念を抱かれて活発に活動されている糸目仁樹会友が「ごこくさん清掃奉仕活動」として有志の方とともに毎月滋賀県護国神社の清掃奉仕活動をされておられます。若い世代の方のこうした活動には本当に頭が下がる思いで一杯です。もし関心を持たれた方は是非ご参加下さいますようご紹介申し上げます。詳しいことはFacebookで「糸目仁樹」さんを検索してご連絡してみて下さい。

ごこくさん清掃奉仕参加者の皆さん

ごこくさん清掃奉仕参加者の皆さん

ごこくさん清掃奉仕活動

ごこくさん清掃奉仕活動

生涯現役・再(再々)就職雑感

任務特性から若年定年制をとらざるを得ない自衛官は、現年金制度においては最低でも65歳までは就業せざるを得ない状況にあります。これは他の年金制度該当者も一見同じように見えるが、再雇用あるいは継続雇用制度が概ね定着しつつある大多数の民間企業や嘱託として引き続き勤務できる可能性の高い地方公務員とは退職時の安心感が全く異なると思います。私が再就職した10数年前とは違い、再就職後も65歳あるいはそれ以上の再雇用等が保障されるケースは増えたかとは思いますがまだまだ十分ではないでしょう。私は、某損保にお世話になり63歳で定年となりましたが、恵まれた会社で65歳までの継続雇用を強くすすめて頂きました。結果として父の介護が緊迫状態にあり断念し、その1年後に父は旅立ちましたが、第2の定年以来現在まで無職でおります。趣味の世界に没頭するだけの人間の幅も無く、DYや先祖伝来の狭い農地の果樹園化、自治会・神社等の役員ボランテイア等でなんとか生き甲斐を求めて65歳を通過しました。今になって思うに、まだ老人クラブ(私の地域は60歳が入会時期)に入会拒否し、精神的、肉体的には40代後半と手前味噌で自負する自分にとってはまだチャンスがあれば、「お金を稼ぐ。」目的よりも「まだまだ何かで頑張りたい。」という意欲は消えずで何か仕事は無いか?と日曜日に多い折込求人広告に目を向けることが66歳になったころから多くなりました。

こんな話題の中で、甲賀・湖南支部所属の「岸村公一」さんという会員がいらっしゃいます。岸村さんは、自衛隊退職後、甲賀市信楽町にある「信楽荘」という長い歴史のある介護施設に勤務されておられるまだお若い方です。フェイスブックを通じてのやり取りの中で「介護職員募集中」の話題があることを私がたまたま目にしたことから、「募集対象は若い人でしょうね、年配者は無理ですか?」と尋ねたところ、「気力・体力的に大丈夫なら全然OK」との回答がありました。私は一寸お医者さん通い中なんで無理ですが、よくよく思うに、介護職ってかって介護保険発足時にブームで雨後の筍のように施設が氾濫し、介護関係学部の学校も増え若者の就職率も高かったのですが、最近は落ち着いてきて無理な経営の施設は当然ながら自然淘汰され、老舗といわれる伝統のある地域密着型の施設は安定しているようですが、いずれにしても私流の考えからすると、介護職域って私たち自衛官出身者にピッタリというかどこか共通点があるような気がします。自衛隊でのいろんな意味での経験・体験がそのまま生かせる仕事じゃないのかなと・・・私は生粋の普通科職種育ちでしたからなおさらかもしれませんが、任務や命令指示には忠実、少々のことでは投げ出さない粘りと根性、一見不愛想でシャイではあるがそっと相手を思いやる気配りと愛情、そして時間管理に厳格な意識、旺盛な体力と気力等々マッチングしそうな点は多々あるかなって思います。反面「変にプライドが高い。」「命じられたことは懸命にきちんとやるが自分で考えて積極的に行動はできない。」「お愛想が言えない。」「自慢話が多い」、「身勝手」 等の弱点も全員ではないものの一般的にある(援護教育なんかでよく指導されてますよね。)ので民間企業特にサービス業に職を求める方は意識したほうがよいでしょうが・・・

もし、岸村会友の職場(姉妹施設が水口にもあります。)に興味がある方は施設のHPのぞいてみてください。任期満了退職や定年退職直後のみならず第2の再々就職でもやる気と必要な条件さえ整えば大丈夫なようです。

http://shigaraki-itsuki.com/index.html

たまたま、岸村会友とのフェイスブック上での出会いがあったのでご紹介しましたが、私は決して施設の回し者ではありませんので念のため(笑)

今の60歳は昔の45歳、さらに自衛官出身はマイナス5歳と自分に大きな自信もってどんな職種でも尻込みせずチャレンジしましょう!一回きりの再就職ってもったいないでしょう。再々あるいは再々再もありでしょう。地本や誰かのお世話だけに頼っていては道は開けません。頑張りましょう!

更にさらに・・会員の皆さんで「こんな仕事あるよ」って情報提供しあえたらいいですね。それが隊友会ってもんでしょ!今でしょ!

会長  奥村記

運動競技協力支援のおもいで(びわ湖毎日マラソンによせて)

36年余りの自衛隊勤務の中で本務である教育訓練の成果を各種の部外協力に生かす場に参加する機会が多く有り、その当時の立場や種目によって様々な経験をしましたが、その中でも今年で第69回を迎えたびわ湖毎日マラソンに第23回(1968)から第30回(1975)まで7回にわたって支援車操従手として参加したことが一番のおもいでです。

御承知の方もあると思いますが、終戦の翌年1946年に大阪で開催され、当時はGHQの統制もあったりして第17回(1962)から交通事情もこれありでびわ湖西岸(皇子山~志賀町)に場所を移し、翌18・19回大会は東京オリンピック準備・予行の関係で東京オリンピックコースで開催、20回から再びびわ湖に戻り、皇子山~びわ湖大橋経由守山折り返しコースでアベベ選手が優勝、あの円谷選手も力走しました。23回(1968)~瀬田唐橋経由守山グンゼ前折り返しとなりその後幾多の変遷を経て現在は琵琶湖の水の調整点である南郷洗堰経由瀬田大萱折り返しとなっています。この間国際級の名選手や若手でその後大きく飛躍した選手等オリンピックや各種国際大会の選手選考レースの役割を担う国内屈指の大きなマラソン大会となっています。

びわ湖毎日マラソンの自衛隊とのかかわりは、平成5年度末に廃止となった私の原隊である「第3対戦車隊」が通信・役員車等伴走車・資材等輸送の協力を実施たのをはじめとして部隊は変わっても現在まで続いています。一時期は東京オリンピックの大規模な支援や国体、各マラソン・駅伝等全国的にこの種協力が実施され自衛隊車両が映像・画像にもよく登場しましたが最近は車メーカーの提供車が殆どで寂しいと感ずる中、自衛隊車両が伴走するのを目の当たりにすると嬉しい限りです。

私は、第23回大会に(1等陸士の時)計時車(当時は電光計時車は見かけなかったですね。)の操従手として緊張しながら初めて参加しました。翌年からは審判長車・大会会長車・取材車等で毎年コースを伴走する機会に恵まれました。誠に不謹慎な話ですが時効とさせて頂いて・・当時、支援操従手仲間で競い合ったことは「レース間いかに多くTV画像に映るか。」でした。そのためにはTV放送車のカメラの撮影範囲内を白バイの統制をものともせず位置取り走行することが必要でその又前提として有利な位置を占める可能性の高い伴走車担当になることが重要な条件(笑)のため、「1に取材車、2に審判長車、3に監察車」と要員選考段階から争ったものでした。私は運よく概ね毎年何回か画面に登場することが出来ました(Vサインはしてません)。中でエピソードを少し・・・その一つは取材車が当時の1/4屯ジープでは狭いとの要望で3/4屯(後の改良タイプで無く米軍タイプの簿でいの広い幌ドアの旧式)となった年に担当となり、当時は瀬田唐橋コースでしたから大津から南下する旧県道と立体交差する唐橋に上がるには90度右折直ちに180度??左折の必要が有り、切り返すのもカッコ悪いのでたち上がった状態でハンドル切った覚えが有ります。そして折り返し地点(大会車はやや手前で旋回)でUターンしたとたん「○○ちゃーん!」と云う黄色い声の声援に思わず声の方向を見たら、なんとビックリ高校の同級生が仲間と声援中、よくよく考えたら「○○」とは私のかってのニックネームでした。十年程後に同窓会があってたまたまその同級生にあったのでその話が出て、私の出身地がグンゼの発祥の地の関係で、当時は同級生の多数がグンゼに就職していたため守山工場にも配置されていてたまたまマラソンの応援していたら私が運転しているのを見かけたと云うのです。私が自衛官になっていたのを知っていたからですが全くの偶然にドッキリしたものです。

最も印象深かったのは、選手の家族が車で伴走するなんて考えもしなかった時代の28回大会(1973)に何故か当時世界トップクラスの外国人招待の某選手の奥様を乗せて伴走することになったのです。「事故でも有れば国際問題だぞ?」なんて脅かされつつも内心ではウキウキしながら順調に伴走するうちにあの話題のレース中某用事案?が起きたのです。私は奥様と一緒ですから当然ながら現場に停車し一部始終を見聞することとなりました。ご本人の名誉に関することなのでこれ以上は申し上げられませんが奥様が車上で思わず両手で顔を覆われたのを覚えています。でもでもさすが当時の世界トップクラス、やおらレースに復帰すると折り返しではトップ集団に、そして最後は車上の奥様に言葉を発しながら余裕の優勝でした。後日談ですが、レース終盤に某選手が走りながらソックスを脱ぎ奥様に渡そうとしたのか私の車に投げ入れたのです。レース終了後奥様にお渡ししようとしたものの不要とのことで処分するのもと思って「洗濯すると価値が下がる??」とかのアドバイスでそのまま保管していましたが、ある時、某高校陸上部から「是非見せて。」と要望が有りお貸ししたまま私も忘れてしまって所在不明になりました(泣)

古き時代の支援風景

古き時代の支援風景(先頭は宋選手)

 

時代の変遷とともに全く様変わりしたことがあります。

この種運動競技には記録がつきもので記録の速報手段は重要な役割であり、自衛隊の通信能力に期待を掛けられた時代もありました。通信本部ではマスコミが周囲を取り囲み我々の受信の復唱と記録用紙に張り付いていましたから間違いは通信の不通は許されない緊張感が有りましたが今は時代が変わり、記録計時車が随行し、スマホ・携帯・ネットで万全で自衛隊の通信は予備手段になるかならないかですね。

大阪女子マラソンが初めて実施されることになった時、当時某部隊の通信小隊長だった私は協力要請に基づき企画段階から加わりましたが、要請内容は各関門からの無線による記録速報です。取りあえず関門位置を確認し計画に基づきテストするもビルの谷間のため本部のある長居陸上競技場スタンド上最高点に設置したF1アンテナには殆ど通じません。本番まで3ケ月を切り、大阪市役所など要点の高層ビル屋上、六甲山、生駒山等に中期所設置、状況によりヘリコプターによる空中中継まで検討しましたが問題は中継所が多くなるほど送達に時間がかかり速報にならず、自動中継装置も安定性に欠けると云うことでした。結果として中継所の通信手がそのまま復唱する半自動中継が一番現実的との結論でなんとか記念すべき第1回大阪女子マラソンを乗り切った経験が有りますが、その後滋賀国体続いて奈良国体の山岳競技の協力にこの経験が非常に役に立ち任務遂行が出来ましたし、じ後の訓練、演習にも大いに役立てる事ができました。

結果論かも知れませんが、各種の運動競技会やイベント協力、災害派遣等は、部隊での訓練成果を存分に発揮出来る場であると同時に、逆に生地での訓練に制約を受ける自衛隊にとって格好の訓練の場であり研究の場でもあると思います。部隊での教育訓練一筋の自衛隊勤務の経験上、この種活動で得た成果が本来任務達成に有益であることも多いと痛感しております。もちろん任務達成が最優先なのは当然ですが・・・

会長 奥村記