滋賀県隊友会

TAIYU SHIGA

03月

運動競技協力支援のおもいで(びわ湖毎日マラソンによせて)

36年余りの自衛隊勤務の中で本務である教育訓練の成果を各種の部外協力に生かす場に参加する機会が多く有り、その当時の立場や種目によって様々な経験をしましたが、その中でも今年で第69回を迎えたびわ湖毎日マラソンに第23回(1968)から第30回(1975)まで7回にわたって支援車操従手として参加したことが一番のおもいでです。

御承知の方もあると思いますが、終戦の翌年1946年に大阪で開催され、当時はGHQの統制もあったりして第17回(1962)から交通事情もこれありでびわ湖西岸(皇子山~志賀町)に場所を移し、翌18・19回大会は東京オリンピック準備・予行の関係で東京オリンピックコースで開催、20回から再びびわ湖に戻り、皇子山~びわ湖大橋経由守山折り返しコースでアベベ選手が優勝、あの円谷選手も力走しました。23回(1968)~瀬田唐橋経由守山グンゼ前折り返しとなりその後幾多の変遷を経て現在は琵琶湖の水の調整点である南郷洗堰経由瀬田大萱折り返しとなっています。この間国際級の名選手や若手でその後大きく飛躍した選手等オリンピックや各種国際大会の選手選考レースの役割を担う国内屈指の大きなマラソン大会となっています。

びわ湖毎日マラソンの自衛隊とのかかわりは、平成5年度末に廃止となった私の原隊である「第3対戦車隊」が通信・役員車等伴走車・資材等輸送の協力を実施たのをはじめとして部隊は変わっても現在まで続いています。一時期は東京オリンピックの大規模な支援や国体、各マラソン・駅伝等全国的にこの種協力が実施され自衛隊車両が映像・画像にもよく登場しましたが最近は車メーカーの提供車が殆どで寂しいと感ずる中、自衛隊車両が伴走するのを目の当たりにすると嬉しい限りです。

私は、第23回大会に(1等陸士の時)計時車(当時は電光計時車は見かけなかったですね。)の操従手として緊張しながら初めて参加しました。翌年からは審判長車・大会会長車・取材車等で毎年コースを伴走する機会に恵まれました。誠に不謹慎な話ですが時効とさせて頂いて・・当時、支援操従手仲間で競い合ったことは「レース間いかに多くTV画像に映るか。」でした。そのためにはTV放送車のカメラの撮影範囲内を白バイの統制をものともせず位置取り走行することが必要でその又前提として有利な位置を占める可能性の高い伴走車担当になることが重要な条件(笑)のため、「1に取材車、2に審判長車、3に監察車」と要員選考段階から争ったものでした。私は運よく概ね毎年何回か画面に登場することが出来ました(Vサインはしてません)。中でエピソードを少し・・・その一つは取材車が当時の1/4屯ジープでは狭いとの要望で3/4屯(後の改良タイプで無く米軍タイプの簿でいの広い幌ドアの旧式)となった年に担当となり、当時は瀬田唐橋コースでしたから大津から南下する旧県道と立体交差する唐橋に上がるには90度右折直ちに180度??左折の必要が有り、切り返すのもカッコ悪いのでたち上がった状態でハンドル切った覚えが有ります。そして折り返し地点(大会車はやや手前で旋回)でUターンしたとたん「○○ちゃーん!」と云う黄色い声の声援に思わず声の方向を見たら、なんとビックリ高校の同級生が仲間と声援中、よくよく考えたら「○○」とは私のかってのニックネームでした。十年程後に同窓会があってたまたまその同級生にあったのでその話が出て、私の出身地がグンゼの発祥の地の関係で、当時は同級生の多数がグンゼに就職していたため守山工場にも配置されていてたまたまマラソンの応援していたら私が運転しているのを見かけたと云うのです。私が自衛官になっていたのを知っていたからですが全くの偶然にドッキリしたものです。

最も印象深かったのは、選手の家族が車で伴走するなんて考えもしなかった時代の28回大会(1973)に何故か当時世界トップクラスの外国人招待の某選手の奥様を乗せて伴走することになったのです。「事故でも有れば国際問題だぞ?」なんて脅かされつつも内心ではウキウキしながら順調に伴走するうちにあの話題のレース中某用事案?が起きたのです。私は奥様と一緒ですから当然ながら現場に停車し一部始終を見聞することとなりました。ご本人の名誉に関することなのでこれ以上は申し上げられませんが奥様が車上で思わず両手で顔を覆われたのを覚えています。でもでもさすが当時の世界トップクラス、やおらレースに復帰すると折り返しではトップ集団に、そして最後は車上の奥様に言葉を発しながら余裕の優勝でした。後日談ですが、レース終盤に某選手が走りながらソックスを脱ぎ奥様に渡そうとしたのか私の車に投げ入れたのです。レース終了後奥様にお渡ししようとしたものの不要とのことで処分するのもと思って「洗濯すると価値が下がる??」とかのアドバイスでそのまま保管していましたが、ある時、某高校陸上部から「是非見せて。」と要望が有りお貸ししたまま私も忘れてしまって所在不明になりました(泣)

古き時代の支援風景

古き時代の支援風景(先頭は宋選手)

 

時代の変遷とともに全く様変わりしたことがあります。

この種運動競技には記録がつきもので記録の速報手段は重要な役割であり、自衛隊の通信能力に期待を掛けられた時代もありました。通信本部ではマスコミが周囲を取り囲み我々の受信の復唱と記録用紙に張り付いていましたから間違いは通信の不通は許されない緊張感が有りましたが今は時代が変わり、記録計時車が随行し、スマホ・携帯・ネットで万全で自衛隊の通信は予備手段になるかならないかですね。

大阪女子マラソンが初めて実施されることになった時、当時某部隊の通信小隊長だった私は協力要請に基づき企画段階から加わりましたが、要請内容は各関門からの無線による記録速報です。取りあえず関門位置を確認し計画に基づきテストするもビルの谷間のため本部のある長居陸上競技場スタンド上最高点に設置したF1アンテナには殆ど通じません。本番まで3ケ月を切り、大阪市役所など要点の高層ビル屋上、六甲山、生駒山等に中期所設置、状況によりヘリコプターによる空中中継まで検討しましたが問題は中継所が多くなるほど送達に時間がかかり速報にならず、自動中継装置も安定性に欠けると云うことでした。結果として中継所の通信手がそのまま復唱する半自動中継が一番現実的との結論でなんとか記念すべき第1回大阪女子マラソンを乗り切った経験が有りますが、その後滋賀国体続いて奈良国体の山岳競技の協力にこの経験が非常に役に立ち任務遂行が出来ましたし、じ後の訓練、演習にも大いに役立てる事ができました。

結果論かも知れませんが、各種の運動競技会やイベント協力、災害派遣等は、部隊での訓練成果を存分に発揮出来る場であると同時に、逆に生地での訓練に制約を受ける自衛隊にとって格好の訓練の場であり研究の場でもあると思います。部隊での教育訓練一筋の自衛隊勤務の経験上、この種活動で得た成果が本来任務達成に有益であることも多いと痛感しております。もちろん任務達成が最優先なのは当然ですが・・・

会長 奥村記