滋賀県隊友会

TAIYU SHIGA

ブログ
滋賀県隊友会本部事務局から日々の雑感などを発信します。

ブログ一覧

自衛隊の雪害派遣バッシング??

またまた某TV局お得意の自衛隊バッシング。「僅1,5㎞しか除雪出来ていない。」とは何をもって言えるのか?公共放送でそこまで言うなら同じ状況で自衛隊と同じ人数と装備で検証した結果が1.5㎞以上なら言いなさい!OBとして心底悔しい思いで一杯です。「僅1,5㎞しか除雪出来ていない。」・・・「それが何か??」と言ってやりたい思いです。これ以外にもSNSでは「自衛隊は重機を使っていない。」「動きが遅い」等現場を見ない、事実を知らない様々なバッシングが有るようですが・・自衛隊員たちはこんな次元の低いかつ事実無根のバッシングに決してめげることなく極寒の中不眠不休で頑張ってくれました。よくあることですが今回のような場合、現場で一生懸命隊員たちが除雪作業したり食料や燃料の補給というまるで自助的作業まで含めて(災害派遣では自衛隊はなんでも屋でなんでもできる・やってくれると思われる場合が多い)口々に車の中の人の安否を気遣い、励ましながら回っても車から降りることも無く除雪を手伝うでもなく、中には「作業が遅い」と怒鳴る場面も・・でもでも隊員たちは反論することは無く懸命に作業します。それは例えば土砂災害で人命救助中、現場の周囲で藁をもすがる思いで肉親の救助を待つ御家族のように被災者の怒りや苛立ち、悲しみ、期待感等々の複雑な心情など多くの災害派遣出動体験から身に染みて理解出来ているからです。豪雪による災害派遣で過去に遡れば、昭和38年の38豪雪、昭和56年の56豪雪をはじめ雪害による災害派遣の経験は自衛隊にとっても数多くあります。陸上自衛隊は全国に展開はしていますが駐屯する地域によって装備が違います。今回でも北陸の部隊は冬季装備と言ってある程度の冬季行動が出来る被服も有りますが中京地区や阪神地区に駐屯する部隊に冬季装備は有りませんし、冬季の活動訓練も中々にし難い状況です。過去の話なので現在は装備されてるかと思いますが、56豪雪で伊丹駐屯地所在の我が普通科連隊にも滋賀県北部に対する出動命令が下りましたが笑い話で恐縮ながら連隊の装備するバケットローダーにはタイヤチェーンが装備されていませんでした。これでは除雪はおろか現地にたどり着けるかどうか心細い状況で苦慮した経験があります。自衛隊(警察予備隊から)が発足して最初に水害事案で災害派遣した時は、法制も未整備、携帯電話や防衛マイクロ専用回線はおろか、電電公社に借りた専用回線で細々と呼び出し電話がつながるかどうかの時代で当時の部隊の副指揮官が管区総監部(今の方面総監部的な組織)まで列車を乗り継ぎ出頭し、それから政府に打診され当時の吉田総理の決断で初めて災害派遣出動したと聞き及びます。以降、規模は様々の数々の災害派遣に出動しましたが総じて日陰扱い、例えば現在のように自治体などとの日頃の意思疎通も無く要請があって赴いても具体的な調整もされず、時には警察の配下で行動するような羽目になったり、当然マスコミからも重要視されずニュースネタにもならず、TVが一般的になった時代でも人命救助で救出した被災者を搬出しようとすると待ってましたと警察に引き渡されTVニュース画像では自衛隊が救出した画面は移らず、マスコミの直接取材も殆ど無し・・・しかしながらもの言わぬ自衛隊は日陰であることは承知しながら、隊員も内心災害派遣の意義について疑問や卑屈に感じながら行動していたのが私たちの若い時代でした。局面が大きく変わったのは「阪神淡路大震災」における大規模災害派遣からだと私は思います。地元実動部隊の第3科長として数々の局面に立ち向かうこととなりましたが、最終的に、自衛隊の活動が広く国民に認知され、「災害対策基本法」をはじめとする法制が改められ立入権限や予防派遣等が可能となり、迎え入れる自治体の自衛隊に対する対応姿勢も大部分の自治体ではそれなりに機能的となり、自衛隊の災害派遣用装備も逐次拡充されました。何よりも大きかったのは自衛隊員の認識と言うか心構えが広くなったということでは無いでしょうか。先に申し述べた「被災者の心情をおもんばかる。」「自衛官としての任務遂行に誇りを堅持する。」このことが後の東日本大震災はじめ数々の災害派遣活動において一部のバッシングはものともせず黙々と任務に邁進し国民の大部分の信頼を勝ち得ているのだと思います。振り返れば私たちの現役時代に被災者の苛立ちからとは思いますが「俺たちの税金で飯食ってんだろう、しっかりやれ!」と言う励まし?のお言葉をよく頂きましたし、時には投石や罵声、給水車の駐車拒否など有りましたが、反自衛隊勢力の意図的行動は除き、被災者の方の心情を思いただただ任務に邁進した頃が思い起こされます。隊員の皆さんお疲れさまでした。今後とも頑張って下さい。

あれから23年・・・

あれから23年、今年も鎮魂の日が巡って参りました。宝塚市の官舎で突き上げるような衝撃に飛び起き、第3科長という職務柄、家族の安否確認もそこそこにたまたま残っていたパンをかじりながら余震の続く中を無我夢中で駐屯地に到着したのが6時、自衛隊と言えども突然の事態に混乱し、隊員の安否確認さえも不十分な状況な中で、被害状況に関する未確認情報が乱れ飛び災害派遣要請も無い中で「近傍派遣」として阪急伊丹駅に出動を決心して以来、4月27日までの100日間に及び私が自衛官として経験したことのない長いそして手探りの災害派遣活動が始まりました。人命救助用の資器材は現在ほど充実装備されておらず、エンピと十字鋤と云ういわば素手で大都会の瓦礫をかき分ける状態の中、「今、行動することがマニュアルになる。」と腹をくくり、逐次全国から駆け付ける部隊に元気つけられながら陸・海・空一帯の災害派遣活動を無我夢中で取り組んだことが今でも鮮明に記憶に留まっています。23年経過して神戸をはじめとする阪神地域の外観は殆ど発災前以上に整備されたように見えますが、被災された多くの市民の皆さんの心の痛みや目に見えない喪失感等々は未だ完全に払拭できるものでは有りませんし、決して風化させてはいけないと思います。その後東日本大震災、熊本地震、各地の大規模風水害等々「災害列島日本」の宿命のように大規模災害は終わることは決してありません。「かわいそう。」頑張って下さい。」では済まされない・・・「明日は我が身」との思いを強くして物心両面の自助・共助の心構えと準備を怠らず、更に充実して「美しい、優しい日本」を守っていきたいものです。

淡路島震源地

直後の隊員居室・・ベッドにロッカーが・・

阪急伊丹駅、最初の人命救助実施

必死に瓦礫と戦う・・

発災2ケ月、応急復興(瓦礫除去)活動

皇太子ご夫妻の視察・激励を受ける(千僧駐屯地にて)

OB会雑感

2月27日(土)、会員の多くが隊友会員でもある旧第3対戦車隊の第35回OB会が開催されました。この部隊は昭和37年の第1次師団改編で対戦車戦闘専任部隊として創隊され、平成5年度末の師団改編で廃止となりました。私は創隊5年目の昭和42年に新隊員教育終了後2等陸士で配属されてから幹部自衛官に任官するまでの9年半と昭和60年から62年にかけての運用訓練幹部としての1年半勤務し、36年余で8つの部隊に勤務した自衛隊生活の三分の一弱となる通算11年間お世話になったまさに原隊そのものです。配属された時の主要装備は106mm無反動砲、その後64式ATM、最後は79式HATMと時代の変遷とともに装備が更新されましたが、特に昭和40年代半ばまではどこの部隊も旧軍出身の幹部や上級陸曹が現役であって訓練内務は厳しかったけれども隊長以下百数十名という師団直轄のこじんまりした部隊で極めて家族的な仲間意識の強い部隊でした。職種は一応は「普通科」ではありましたが普通科連隊とは全く趣きを異にする完全車両化部隊で独立戦闘能力は無く普通科連隊や戦車部隊と協同又は配属されて対戦車戦闘のみを担任する部隊のため普通科職種としての意識に元々乏しく、幹部候補生の学科試験受験にあたり、職種の問題では私達にだけ必要で有った「対戦車隊」という薄っぺらい教範に留まらず、見たことも読んだこともまして経験したこともない「普通科連隊(群)、普通科中隊、本部管理中隊、重迫撃砲中隊、その他機関銃や迫撃砲などの火器教範等」の多くの教範やその内容が出題範囲となるため面喰いかつ意気消沈し勉強する気も受験意欲もわかなかった思い出があります。

さて、本題のOB会についてですが、本来OB会はOB同士の旧交を温める目的はもちろんのこと母隊との連携・交流による相乗効果があります。自衛官に転属はつきものなので本来なら勤務した全部隊のOB会に属してもおかしくは無いのですがOBの大部分はその部隊に長く勤務した方が主力でもあることから逆に指揮官や幕僚はしょっちゅう入れ替わっていることも有り幹部自衛官は一般的に馴染みも薄く、何か特別の因縁でもない限り話題も限定されかつ本人が思う程に歓迎もされない??ので自然に縁遠くなるのが一般的かと思います。中には非歓迎ムード一杯の中、「俺が◯◯(役職名)の頃はこうした・・・ああした・・」等と自慢話、手柄話でそっくり返りブーイングの嵐を受けた人、さらにはそれにもめげずOB会に何度も参加し宴席で挨拶に来ない旧部下に小言を言う猛者?旧指揮官もあったりしますがやめれば只の人、同格ですからねー。私の場合は新隊員から在籍し原隊である第3対戦車隊及び、中隊長に上番し苦楽を共にした隊員の多くと今に置け交流のある秋田第21普通科連隊第2中隊(奇しくも私が中隊長に上番した第2中隊の初代中隊長は元第4代第3対戦車隊長でしかも私が陸士長当時隊長付操縦手でした。そして第3代中隊長は元第5代第3対戦車隊長、加えて初代第3対戦車隊長のご子息が運用訓練幹部として勤務の奇跡的縁もあります。)そして2等陸士として自衛隊入隊、大隊長を最後の職とした地元部隊第109教育大隊の3個部隊だけがOB会員としての繋がりとなっています。国の防衛施策の変遷に伴う幾多の改編により母部隊が無くなると母隊との連携・交流はもちろん、OB会に対する所要の支援・協力も受けられなくなりOB会の存続にも多大の影響があります。平成5年度末の師団改編では第3師団の場合、第45普通科連隊が廃止となり昭和45年以前の乙師団3個普通科連隊体制に戻り、併せてわが第3対戦車隊はじめ、特科、戦車、施設部隊も戦闘団編組の関係上第4大(中)隊が廃止となりました。幸いにもわが第3対戦車隊は廃止になった代わりに3個普通科連隊に「対戦車中隊」が新たに編成されたため対戦車隊員の多くはこの要員として79式HATMとともに各普通科連隊に転属し対戦車隊の血脈はかろうじて生き残り、私自身、第36普通科連隊の第3科長勤務でしたので旧友を迎え入れる立場になり感激したものです。然しながらこれも長くは続かず最終的に対戦車中隊も廃止の憂き目にあい旧第3対戦車隊の血脈はついに途絶えることとなりました。このような浮き沈みの中で、わが第3対戦車隊OB会は、会友紙を発行したり普段の交流イベントを企画したりと役員の皆さんの頑張りと会員の熱意で1年も欠かすことなく毎年例会が実施され今年で35回になりました。間隔をあけることなく毎年開催することで会の維持が出来ているという側面効果もあり、加えてそのために毎年参加メンバーが入れ替わり立ち代わりもあって懐かしい旧同僚達と長い年月の末に再会することも多く有り意義深いものです。私も今回は陸曹の同期生(38期)で一緒に第3陸曹教育隊に入校し41年前にお互いの転属で離ればなれになった山口県在住の入隊2年先輩と再会を果たすことが出来大感激の1日でした。わが母隊に限らずこの種OB会の運営も年々厳しくなる中で今一歩目的を見つめ直し時代に適合するように運営の柔軟性や斬新性をも加味していくことが求められていくような気がします。

会長 奥村記

初代主要装備の106mm無反動砲

初代主要装備の106mm無反動砲

第2代主要装備64式対戦車誘導弾(64ATM通称マット)

第2代主要装備64式対戦車誘導弾(64ATM通称マット)

 

 

3代目主要装備79式対舟艇対戦車誘導弾(79HATM通称重マット)

3代目主要装備79式対舟艇対戦車誘導弾(79HATM通称重マット)

OB会総会

OB会総会

記念碑(部隊廃止時大津駐屯地に建立)

記念碑(部隊廃止時大津駐屯地に建立)

記念碑の前で第3対戦車隊歌の隊歌演習

記念碑の前で第3対戦車隊歌の隊歌演習

懇親会

懇親会

41年振りに陸教(38期3曹教)同期との再会

41年振りに陸教(38期3曹教)同期との再会

上から目線って??

会友の皆さん!隊友会、OB会等々自衛隊とのつながりやしがらみはあるものの、日々の生活環境や職場環境が180度変わって自衛隊を退役して10年以上もたつと「もはや自衛官ではない。」という心境になりませんか?でもこれは当然のことで自衛隊在籍時の表現は適当ではないかもしれませんが縦割りかつ閉鎖的環境組織から一般社会の荒波に投げ出された後は、いつまでも自衛隊時代の階級や考え方が通用するはずも無く職場によっては自分の子供のような上司に仕え、極悪クレーマーを相手にひたすら頭を下げる毎日の中でやがて本来の社会人として生きていけるようになるんでしょうね。

そこで、よく「上から目線」と言う言葉を耳にしますが、「上から目線」と相手方に思われる人・組織は案外自分自身ではそんなつもりは無いにも関わらず、受けた人にとっては全く組織外や違う社会的立場の人であった場合は物凄く違和感や抵抗感を持つ場合が多いと思います。私は定年直後から自治会長や氏子総代等いくつかの地域役員を務めましたが、私自身意識して特に丁寧な言葉や対応に心がけたつもりでも「奥村さんは元自衛官だから偉そうにしている。上から目線だ。」などとしょっちゅう非難されたものです。高齢者になりすっかり一般社会人化した最近になってお役所や自衛隊等とのやり取りの中でようやく「上から目線」ってこう言うことだったのかとおぼろげ乍ら私なりの解釈をするとともに自分の自衛隊勤務時代を思い起こして反省しきりであります。

退官して再就職するにあたり「もはや自衛官では無いんだ。民間社会に溶け込もう。」と言う決意とともに「自衛官として培われた心技体。順法精神を期待されている。」と言う自負心が混ざり合った状態でスタートしたものの、どちらかに少しでも偏った途端に挫折を味わうケースは良くあります。私の場合、損害保険会社に再就職し退官の翌日から見知らぬ初対面の事故被害者に面談しこれ以上の屈辱は無いと感ずるほどの罵声を浴びたのが民間人としての第一歩でした。依来8年数か月、1千数百件の事故処理にあたり何とか第2の定年63歳まで過ごせたことで少しは人間修養させていただけましたが損保では自衛官出身者の定着率は両極端で早い人はいきなり私のような洗礼を受けると1週間と持ちません。1年以内で退職する人の殆どが自衛官時代は自他ともに認めるそこそこの地位・階級にあった人でした。その時分に元自の会社後輩によく相談を受けましたがそのほとんどが「こちらはまともなことを言っているのに理解しようともしない。筋の通らない話をする。」等々の内容でしたが、要はプライドが許さないのと自分の考えや行動に相手が従わない?ことに対するショックです。自衛隊は階級制を持って上下関係を律する精強な組織であることが存立要件であるのは当然で有ります。よって各種事業や行動等は指揮官の指針に基づく幕僚作業によって計画・命令等化され実行に移されます。時にトップダウンを旨とする積極的な指揮官もありますがいずれにしても組織内での疎通はできているため最終的には「問答無用」が当然なのです。

然しながら、相手が民間であった場合はどうでしょうか?民間人や民間の組織を巻き込む事業等について自衛隊内では完璧に計画準備がなされていたとしても、事前に相手には知らされず出来上がった計画を開示された相手が疑問や意見を述べた場合「既にトップの指導受け済・決済済です。そのことに対する理由はこうです。」等々と理路整然??のつもりで言いきってしまう。これを受けた相手は納得する場合もあれば民間人としての立場や考え方に照らして「上から目線だ。」と感じるかのいずれかでしょう。ローカル駐屯地の第1科長や副連隊長あるいは師団司令部1部総括班長等部外協力団体の皆さんと接する機会があった時代、思い起こせばいろんなトラブルを経験しました。一例のご紹介です。現在でも自衛隊記念日行事の記念会食は部外協力団体主催の形態のところが多いかと思います。某駐屯地勤務時代のことです。その駐屯地は地域の自衛隊感情がすこぶる宜しく逆に言うと密着しすぎて半ば馴れ合い的になっていたきらいがあるぐらいでした。その県には私の所属する普通科連隊基幹の駐屯地、他幕の基地及び地方連絡部が所在し、防衛協会、父兄会、隊友会、防衛協力会等の共通協力団体とそれぞれの駐屯地、基地の協力会始め多くの部外協力団体があり、駐屯地記念日行事の記念会食は例年駐屯地協力会が主催で実施されていました。ある年のこと、協力会長がトップを務める某企業の総務部長から「今年の記念会食について計画を頂いたので会長に報告したところ会長から「会食の配席でメインテーブルに配席されている某氏は近年急激に業績を伸ばされている企業主ではあるが協力会には最近入会されたばかりで役職も無いのでメインには値しないのではとの意見があったので司令職務室長にお伺いしたら、「計画は実行委員会で審議し駐屯地司令の決済を既に受けたものです。某氏(会社経営者)は隊員や家族の冠婚葬祭などで便宜を図っていただいたり、駐屯地に個別にいろんな意味で(意味深長)協力頂いていて駐屯地として外せない・・」との回答でしたのでこの旨会長に報告したところ会長から「地域の経済界・政界の主だった方がこぞって会員になって頂いている協力会としてはバランス上からもいささか疑念が生ずる可能性がある。」とのことでした。」との電話を頂き、詳細ないきさつを司令職務室等に確認し、計画段階であって配席は当日でないと本人にはわからないこともあるので2番目ランクテーブルに変更する処置を司令に了解を取り、処置の説明を兼ねて協力会長にお詫びにお伺いしました。その時の協力会長のお言葉は今も良く覚えております。要旨は「協力団体はこの県内でも沢山ありますし会員も数個の団体を重複している人もいます。また、入会の目的も基本は「日本の防衛、ひいては自衛隊の皆さんの後ろ盾になりたい。」方が殆どですが中には自己のステータス向上や商売目的の方も無いわけではありません。又、「金は出すけれども口は出さない。」方が自衛隊にとっては都合がいいでしょうが、これが全てでは無く、真に自衛隊のことを思い提言や意見を申したい、いやそれが協力だと思う人も当然あります。今回の事例で言えば{主催団体の名義貸しで経費は持ちますから自衛隊さんご勝手にどうぞ}でも宜しいですが部外者も多数参加する会食ですから社会通念上、あるいは地元経済界、政界の事情から配慮すべき点も無きにしもあらずで、このことは我々民間人しかわからないことであり、自衛隊さんに恥をかかさないためにも計画に対する疑問点を申しあげるのは憎まれ役になるけれども主催団体長の務めと思って敢えて申し上げさせていただきました。」とのことで只々自衛隊の世間狭さを恥じ入るばかりでした。要は「上から目線」とは直接のあからさまな言動ばかりでなく、このような「わが組織で計画したことが絶対で聞く耳持たぬ。」あるいは「わが組織内での理屈や理由付けは万民共通で誰でも理解可能である。」との勝手な思い込みが相手に読み取られた時点で相手は「上から目線」と感じるということです。役所に何かの届や質問をしても、決まって「条例の〇号〇項で決まっています。」「そういう例はありません。」「これまで何も要望が無かったですから・・」などと役人の立場からは至極当然と思う回答が来るわけですが市民にとっては全く回答になっておらず明らかに「お役人の上から目線回答」と感ずることでしょう。結果は当初から明白であっても「その件は規則上こうなっておりますが念のためお調べさせて頂いて(検討させて頂いて)お返事させて頂きたいと思いますのでしばらくお時間頂けますでしょうか?」という民間企業の常識である市民目線の前向きな回答が返ってくることは極めて少ないのが現状です。

少なくとも自分たちの計画の正当性を確信し主張する場合であっても即座に反論するのでは無く「お申し越しの件は賜りましたので関係部署、上司等と協議検討の上後刻お返事させて頂きますのでしばらくお時間頂けますか?」と回答し最終的に修正の余地が無ければ相手に具体的理由を丁寧に説明し理解を得るという手順があれば「お役所(自衛隊も含む)は上から目線だとは思われにくいはずです。損害保険会社のように対人関係を重視する業界では「最初から結論ありき」の事柄でもいったんは間合いをおいてから丁寧に説明し理解を得ることが仕事の出来る要素でありました。仮に民間企業の世界であっても同業同士では常識で問題のないことも、相手が異業種や素人の方の場合はそうはいきません。民間企業とお役人の世界では組織の目的や価値観が異なるのは当然ですがいずれにしても「接点」を模索し対応を考えて接することが肝要でかつ常識かと思います。要は自己中が「上から目線」の始まりだということに相手の立場になって今更ながら気付きました。

 

会長 記

 

 

あれから21年

あれから21年、今年もまた1月17日が参りました。地元部隊にあって罹災証明書を有する私たちがかって経験したこともない未曾有の大災害にスコップとツルハシとロープという素手同然で立ち向かった兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)について国民の皆さんはじめ我々現役時代に直面した元自衛隊員はもとより現役の若手自衛隊員の皆さんを含め少しずつ脳裏から薄れてきているのでは無いかと危惧しております。決して自慢にはなりませんが、あの災害派遣を契機に関係法令等の整備、人命救助システムをはじめとする資器材の整備、そして何よりも国民の皆さんの理解と信頼を得る大きな転換期になったこと。またその現場で100日間闘ったこと・・・誇りに思うとともに決して風化させてはいけないと思います。そのためには私たち実体験者が「語り部」にならなくてはならないとの思いです。

阪神大震災1

瓦礫と素手での格闘

瓦礫と素手での格闘

隊員居室

隊員居室

野島断層

野島断層